2021.05.10

広報しろたまり その12 木桶復興にかける男たち

日本の醸造にとって、木桶は必需品だったはずです。

子供のころ、私は工場の中で育ちました。薄暗い蔵の中を走りまわり、洗い瓶をのせた台車に飛び乗ってひっくり返し死ぬほど叱られたり。
このころの一番の思い出は、誰も遊んでくれないので、母親の財布から20円くすねて近所の駄菓子屋へ。知らん顔して買ってきたガムを噛んでたらいきなり先代に取っ捕まり、荒縄でぐるぐる巻きにされて軒下に吊るされたこと。
しばらくミノムシのようにブラブラしてました。どうしてバレたのか、いまだにわかりません。生きてるうちに聞けばよかった。

そのころの仕込桶はみな大きな木桶でした。今、碧南本社の白醤油仕込蔵には、木桶は一本もありません。昭和50年代はじめに、先代が強化ガラス繊維(FRP)のタンクに全部替えたんです。

新桶は日本酒の蔵元が作る、のが普通でした。
新桶=高い=お金持ちの酒蔵が作るという、わかりやすい構図です。さらに、お酒は仕込桶が古くなると味が落ちるらしく、20~30年でまた新桶に入れ替えます。このときに出る中古の桶を醤油屋や味噌屋が譲ってもらい使うのが、木桶の一生でした。

ところが、その酒屋さんの世界から、あっという間に木桶が無くなる時が来ます。少し大げさですが、仕込んだ酒が目減りすることを嫌う大蔵省の思惑と、腐造が怖い酒屋さんの気持ちが一致、目減りが少なくて衛生管理がしやすいホーロータンクにどんどん替わっていきました。

そして昭和40年代、高度成長期に入った日本、近代化促進の名のもとに様々な産業が様変わりしていきます。

醤油業界では協業化がすすめられました。

多くの産地では協業工場ができ、巨大な製麹機と仕込タンクで大量生産した生揚(未加工の醤油)を組合で作り、各組合員はそれを仕入れて火入加工、瓶詰して販売する大変効率のいい体制が次々と日本中で生まれていきます。

これにより、各地の醤油はその品質を高いレベルで均一化できたこと、生産効率が飛躍的に高まったことなど、まさに近代化が促進されました。
が、その一方で蔵の個性は失われ、どこの醤油も似たり寄ったり、だったら安いのでいいわと大きな代償を払うことになった、と今は思っています。

そして木桶はその役割を終えていきます。
お酒の業界ではほぼ全滅、醤油や味噌の業界でも激減し、地方で小規模に生き残った個性的な蔵、豆味噌、溜醤油や白醤油のように協業化されなかった特殊な味噌醤油蔵にわずかに残して。

1997年、足助の地に仕込蔵をつくろうと思ったとき、もう一度木桶を置こうと思いました。だって、あの場所で、あの建物を蔵にして、樹脂や金属のタンクなんて考えられない!笑

手元にはないわけで、醸造機械を扱う業者さんに頼み、全国の酒蔵で使われなくなった桶を1本づつ、大きさは20石を基準として集めていきます。1石は10斗、1斗は10升ですから、20石は2,000升、つまり3,600リットルです。実際は結構ばらつきがありますが、だいたい4,000リットル弱の容量の桶を5本集めて足助仕込蔵をスタートしました。

このころ、また新しく木桶が作れるなんて思ってもいなく、でも木桶で仕込みたく、遠い将来よりとりあえず今、出来るだけ程度のいい桶を集めて何とかやろうと、いい加減といえばそうですが、先の心配より今納得のいく方法を実現することに夢中で。

仕込蔵の木桶が10本を少し超えたころ、確か2012年だったか、足助のお隣、新城で木桶を作っていると社員さんが聞き込んできました。日本木槽木管さんという会社の工場が隣町にあるというんです。

ビックリして話を聞かせてもらいました。
続きはまた後日に。